神社仏閣や遺蹟など歴史が深い世界には、由来、伝説、昔話など色々あります。
幼い頃に毎週放送されていた昔話が大好きでした。
昔の人たちの考え方、捉え方などを感じさせてくれる大切なお話だと思っています。
色々な参考資料をもとに写真と共にお伝えしていきたいと考えています。
では第十九話をお話しさせていただきます。
転害門
東大寺の西北の大門を転害門といいます。テンガイ門を音便でテガイ門といいならわしています。それで手貝門とも、手蓋門とも、手搔門とも書きました。今、この辺の町を手貝町というのはこの門からきているのです。 奈良市立鼓阪(つざか)小学校はこの門の所から入っていくので、この小学校の門のようにも見えますが、実は東大寺が奈良朝時代に創建された時に建てられたもので、立派な雄大な古い、国宝の八脚門であります。
東大寺創建の時、九州から宇佐の八幡さんが東大寺へ迎えられた時、八幡大神はこの門から入られて、みちみち殺生を禁断されたので、転害門と名づけられたと言い伝えがあります。毎年、手向山(たむけやま)八幡宮のお祭が十月五日にこの門まで渡御して行われ、転害絵といいますので、それに関連した伝説なのでしょう。 また、大仏さんができて、その開眼の導師として、天竺の国から菩提僧正が招かれてきた時、お待ちしていたわが国の行基僧正が早く早くと、この門の所で手招きされたので、手搔門という、というのも一つの伝説です。
また、この門を景清門(かげきよもん)とも言われているのですが、それにはこんな伝説があります。
源平の戦の頃、東大寺は大部分兵火で焼けましたが、この転害門は残りました。鎌倉時代の大仏再建の際、大いに力をつくした将軍源頼朝が、建久六年の大仏供養の時に奈良へやってくることになりました。その時、平家の勇士、悪七兵衛景清が、頼朝を暗殺して恨みを晴らそうと思い、坊さんの姿に化けてこの門に隠れていました。しかし、警固の武士に見つけられて捕えられました。それから、この門を景清門というようになったのだといいます。
その転害門、今は囲まれていて中には入れませんが、昔は子どもたちの遊び場になっていたそうです。夏休みに祖父と早朝散歩でこの辺りを通るときに話していました。奈良人はなぜ早起きかなども、、 大和の昔話をたくさん話していてくれていたのです。その伝説がひとつひとつ甦ってきそうです。
~奈良市・東大寺 転害門
写真・東大寺 転害門
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