神社仏閣や遺蹟など歴史が深い世界には、由来、伝説、昔話など色々あります。
幼い頃に毎週放送されていた昔話が大好きでした。
昔の人たちの考え方、捉え方などを感じさせてくれる大切なお話だと思っています。
色々な参考資料をもとに写真と共にお伝えしていきたいと考えています。
では第十五話をお話しさせていただきます。
若狭井戸
東大寺二月堂の修二会を、俗に「お水とり」というのは、その行法中の三月十二日の夜半に、二月堂の下にある若狭井戸から、お香水のお水をくみとる行法があるから、その名がこの行法全体の名になっているのです。この若狭井戸に次のような伝説があります。
昔、実忠和尚が、修二会の行法中、神名帳の読み上げといって、全国一万七千余の神様の名を読み上げて、ここへお集まり願うのですが、神々は自分の名を読まれると、すぐここへ集まって来られたのに、若狭の国(福井県)の遠敷明神(おにゆう)だけが、魚釣りに出ていらっしゃって遅刻されました。他の神々は、なぜ遅参したのだと咎められますと、遠敷明神は
「恐れ入ります。遅参しました申しわけに、若狭の水をここへお送りして、このお堂のほとりへ香水をお出し申します。」
といって、祈念されますと、二月堂下の大岩がグラグラと動いて二つに割れ、その間から黒白二羽の鵜が飛び出して、そこから清水が湧き出てきました。
それで実忠和尚はここを閼伽井(あかい)とされました。これが今も二月堂下にある若狭の井戸です。
これが若狭の昔話ですが、全国一万七千余の神様の中で、遠敷明神だけが、なぜこうした話の種になったかと考えられます。
近年歴史を調べると、実忠和尚はもと若狭の国の遠敷神社のそばのお寺におられたそうです。それで、実忠和尚が東大寺へ来られてからも、二月堂の修二会には、若狭の国から、お香水をほんとに奈良まで持って来させたのではないだろうか、後世、それが出来なくなってから、若狭からこの井戸へ水が来るという伝説が生まれたのではないかと、考えられた人があります。 この遠敷明神さんは二月堂の裏すぐにある遠敷神社おられます。 東大寺に来られた際には直接聞いてみてはいかがでしょう。
~奈良市・東大寺 若狭井戸
写真・若狭井戸
コメント