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大和の昔話

神社仏閣や遺蹟など歴史が深い世界には、由来、伝説、昔話など色々あります。
幼い頃に毎週放送されていた昔話が大好きでした。
昔の人たちの考え方、捉え方などを感じさせてくれる大切なお話だと思っています。

色々な参考資料をもとに写真と共にお伝えしていきたいと考えています。
では第一話をお話しさせていただきます。

「十三鐘の石子詰」

興福寺の南側の石垣に沿って三条通りを上がっていきますと、右側へダラダラと下がった所に、俗に十三鐘と言われていますが、菩提院大御堂というお堂があります。(興福寺の一部)

昔、このお堂の横に寺小屋がありました。寺小屋は今の小学校や中学校のようなものですが、せいぜい二十人か三十人くらいまでの子供がお寺の和尚さんに、読み書き算用といって国語、習字、算数の三科目を習うのでした。

三作という子供が「いーろは、いーろは」と声をあげながら習字をしていますと、廊下の方へ春日の鹿がやって来ました。そして廊下にかけてあった草紙をくわえましたので、三作は「こらっ」といって、けさん(文鎮のようなもの)を投げつけますと、当たりどころが悪かったのか鹿はその場に倒れてしまいました。

奈良公園にいる奈良の鹿は春日大社のお使い者とされていたので、昔は「鹿を殺せば石子詰」の刑といって、死んだ鹿と一緒に生きながらに埋められることになっていました。

それで三作もこの大御堂の前の東側の庭へ穴を掘って鹿と一緒に生き埋めにされたのだといいます。三作の埋められた所へ、お母さんが永年供養の花として、モミジの木(楓)を植えられました。それで「鹿にもみじ」という取り合わせ(花札)が始まったのだということです。

また、石子詰になった時刻が、夕方の七つと六つとの間であったので、ここを十三鐘というのだといいます。

~奈良市・興福寺菩提院大御堂

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